玄海町長の“責任感”はどこから来るのか - 福島事故後も続く原子力政策の「曖昧さ」 -
九州電力の玄海原発が立地する佐賀県玄海町の岸本英雄町長が「核のごみ受け入れ検討」との報道が一斉になされているが、報道をよく確認してみると「選択肢の一つ」という表現でしかなく、これがニュースになる日本の現状に暗澹たる気分となりました。
そもそも、おおさか維新の会は、原発から生み出される電力を消費している全ての地域(=自治体)に(最終処分施設の設置に向けた調査への)協力義務を課すべきと考えており、そうした枠組みを規定した「原発再稼働責任法案」を昨年の通常国会に提出しました。
原発の再稼働を進めるのであれば、使用済み核燃料の最終処分に協力するのは電力消費地の“義務”であり“選択”の余地などないはずです。もちろん、科学的に有望な適地を見出す努力は国の責任で進めるのですが、いったん適地となれば、調査への協力はすべての電力消費地の義務ではないでしょうか。
ところが、電力消費地である福岡等に責任を幅寄せしてもいいはずの岸本町長は「将来の日本のエネルギー政策をきちんと成り立たせていく責任が立地地域としてある」と語っています。権限と責任、受益と負担の均衡を考えれば、最終処分の責任は「電源立地」地域ではなく「電力消費」地域にあるはずなのに。
もしかしたら町長は、最終処分の“責任”を負いたくなるような“受益”をこれまで享受してきたという認識なのでしょうか。あるいは、最終処分地の受け入れは“責任”ではなく“受益”を伴うことを見越しての、計算ずくのご判断なのでしょうか。本当に分かり難い構図です。
自民党政権が作り上げ今も継続しているエネルギー政策=原子力政策は、補助金や交付金を通じた手練手管で原発立地地域の協力を取り付けてきたのであって、受益と負担の関係は限りなく曖昧です。その「曖昧さ」は、福島第一原発事故を経てもなお、何も変わっていないのです。